昭和42年04月10日 月次祭



 どうでも神様を確信させてもらう、確信させてもらえれるおかげを頂きたい。ですから信心をさせてもらう、信心の稽古をさせて頂くと言う事はいよいよ、神様を確信させていただく為に確信の出来れるお繰り合わせを頂いてまいります事によって、何と神様はこのようなおかげを、このような働きを私共の上にして下さるんだと言う事が分かる。いよいよそこから神様を確信する事の出来れる、信心が生まれてまいります。
 神様を、神様を確信出来るというところに、安心の大みかげが頂けれるのでございます。皆さん、あの、もうこの頃は何も心配しませません。神様に御すがりをしておりますから、神様にお願いをしておるから、心配は致しませんというように、皆さんが言う方がございますけれども、平穏無事な時ににはだれでもまあ、安心をしておるように見えるのでございますけれども。
 さあ、いよいよ風邪が吹いて参りますと、船は帆まかせ風まかせと神様まかせと言うようなことを申しますけれども、いよいよ親先生にお任せしておりますから安心だ、神様におまかせしておるから安心だと言うけれども、その乗っておる船がです、少しゆれだしますと、風が出てまいりますと、今まであげておった帆でもなんでも、慌てて降ろしてしまうと言う事を致します。
 そこで船はそのグルグル回りで目的地には一つも進まない。その風をこそ利用させてもろうて、それこそ、普通でならば1時間かかるところをですね、二十分ででも、ぱーっとその、矢を入るような勢いが出るのでございますけれども、問題はそこのその操り方一つを稽古させて頂けばよいのですけれども、風が吹きだしますと、船が動きだしますと、みんなが慌て出します。そして日ごろの安心はどこへやら。さあ
 不安でありしょうそうである。もう眠っても寝ても、眠られないというようなことになりかねないのですね。それは神様を確信していなからなんです。そういうことでしょうが。信心とは神様が教えて下さるように、神は信じるものを信じるとおおせられる。神を信じるものは多いけれども、神から信じられる氏子が少ない。教祖の御教えに、そういう御教えがございます。
 神を信じる氏子は多いいけれども、神から信じられる氏子は少ないと言うて下さるんですけれども、最近私は思うのですね。神を信ずる氏子は多いと仰るけれども、その神を信ずる氏子ですらがこの頃は大変少なくなったという事。おぼろげには分かっておる。おぼろげには成程神様ちゃござるじゃろうぐらいな事は分かっておる。ではお願いをすればおかげを頂くから、まあござるじゃろうという位な神様ではです。
 私は本当のことじゃないと思うのですね。神様を信じるというたら、私共はどういう神様を信ずるかと。世の中には様々な神様がございますですね。私共の昔のおりました、草野町にはあして荒神さんちゅゆのがございました。?やっぱり荒神様です。神様でございましょうね。此の方は足手専門の神様です。足やら手やらの事に限ってはもう、いわば専門医といったような(?)。
 同時に今度はいきめ?八幡様というのがございます。もう、目専門の八幡様。まだ世の中には色々おられますですね。久富繁雄さんが総代さん。一番始めに、椛目に御神縁を、頂かれた頃なんです。やはり今でもああいう、実意丁寧な信心が出来るのですけれども、なんとはなしに、実意丁寧な信心をやっぱなさっておられた。ある時には急にその足が痛みだしたんですね。
 それで隣村におられる何々お稲荷という、その御稲荷様にお参りになってから、いわゆる拝んでもらいなさった。ところがその、先生であり荒神さんが言われることに、これは、久富さんあんた、大変な事をしとるばのち。どういうことでしょうかち。あんた荒神様の足に三本鍬をうちこんどりなさるですよち。荒神さんの足に三本鍬(?)しょうね。これは大変なことをします。
 これは御断りしなければできん。そしてなるほどですね、そうして、御神酒どんあげてからですね、御断りどんするやっぱ、治るちいうんですからね。やはりですね、迷信でもですね、信じれば信じたようなことが起こってまいります。はあ、荒神様さんがあげんいわっしゃった。毎日ごんぼほりにいきよるから、なるほどそん時に荒神様ごめんなさいもいわんなしとったが、荒神さんの足に三本鍬を打ちこみなさったと。
 したら、私今朝それを聞いてから、思うたんですね。繁雄さんかたん畑に荒神様の、じゃない、その、荒神様の足ならば胴体はどのへんじゃろうか、頭はどのへんじゃろうかと。けれどもね、低級な信心に迷うておるときにはそういうようなことにでもです、迷うのです。そしてそう言われるとはあそうかもしれんなと思うて、御神酒をあげたり、御塩を振ったり致しましたりしてですね。
 拝んでもらってなでてもろうたり、さすってもろうたりするとです、はあこれで、金神様じゃない、金神様が許されたと、もうこれで、金神様にお許しがでけたと思うと足の痛みが直る。迷信でもです、信じることによってです、それはそういうものが引き起こってくる、これは大変難しいことになりますけれども、そういう、理があるのです。最近はま、結婚シーズンですから、ま、結婚があります。
 もう日柄方角ね、を申しましてから、まあ黄道吉日を選んで致しますから、さあよい黄道吉日という日にはこの頃もう野口さんところのご祝儀がございます。水天宮様でございましたそうですが、非常にそのやはり神経持ち方なんですよ。先方が。それで、あぁたもう、結婚式もズイーと並んでおられる。は、まるっきり押し出されるようなもん。?もうお供え物でんなんでん、(?)、もうずうとしまえるち(?)。
 果たしてあれが、水天宮様がききござるじゃろうか。というふうに思うのですけれども、人間な気分なもの。気分なもの。やっぱり、神前結婚がよか。というようなことでですね、信心しておる(?)、信心しておるとは言えないまた、私どもが、今日申しております、私共が拝ませて頂いておる神様、足のせんもんだけでもなからなければ、目だけの専門だけでもない。
 久富さんところのごぼう畑に、いきなり、足を投げ出しなさるような神様ではないということ。それこそ、この天地をまる生かしに生かしてござる神様なのです。この神様の前には日柄もなからなければ方位もない。それこそ、指一本で押すだけでも、この天地の中にです、この天地の中にこの天地の親神様のご神体でないところはどっこにもない。それがどういう不浄の地であろうが、どういう三寒僻地であろうが。
 そこはやはり天地の親神様のご神体なのだ。そこんところを私共がけちをつけるようにここは良いの悪いのというようなことこそがお道の信心を致しますとご無礼でございますことが分かってまいります。神様を信ずるというけれども、せっかく信ずるならばです、そういう、間違いのない、しかも私共がきってもきることが出来ない関係をもって、おられるところのいわゆる大天地に対するところの小天地。
 天地の親神様に対するところの、氏子としてのです、続柄というもの、関わり合いというものをです、私共が分からせて頂けば頂くほど、この天地の親神様のおかげを頂かなければここ一寸が動かれんのであり、私共人間凡夫としては障子一重がままならぬ私達であるという事が分ってくる時から、動くことに対しましても動かせて頂いておるという心がおのずと出来てくるのでございます。
 天地の親神様のおかげをです、もう、この神様ではおかげを頂きりゃっしゃる。おかげを頂けん時にはどこどこの何なんちゅう神様がござるけんで、あっちさん行く、というような神様ではないという事。足だけでじゃない、手だけじゃない。しかも、牛馬のことに至るまで、私共の人事百般なんなりとも実意を持って願えば聞いてくださることの出来れる、働いてくださることの出来れる。
 またお願いの出来れる私どもは神様を頂いておるということなのです。そういうことが段々、なるほど親神様だなあと信じられるようになってまいりますね。信心のある者と無い者は親のある子とない子ほどの違いと仰せられます。信心しよれば良いことばっかりじゃないのです。親なんですからいつも撫でたり、撫でさすったりするだけの神様じゃないのです。言うことを聞かなかったら、たたきもする。
 いくら言うて聞かせても言うて聞かせても分からんならば、そこにはお気付もあるという神様なんだ。なぜって親だから。ね。そういう神様をです私共が本当に身近に心の中にです、確信できれるそういう神様のです、いつもお守りを頂いておるんだご守護を頂いておるんだ、しかも金光大神の大徳によって金光大神の御取次ぎによって、私共と天地の親神様のおかげを受けられるようになっておるのだということをです。
 私共確信して頂き、信じられる、信じる。そこでそんならです、御願いをした、おかげを頂いたというようにです、御願いをすれは思う通りにおかげを下さればです、なるほど神様ちゃござるな、というようなことにもなります。日々私御取次ぎをさせて頂く。本当に私自身がここに御取次ぎをさせて頂いて、本当にどんなに考えても神様の働きといいながら、有難い事だな。
 不思議なことなそれは体だけの事ではない、五体だけの事だけではない。人知百般いわゆる人間関係のもうそれこそもつれにもつれたと言った様な問題までです、神様がおかげを下さる所までに、私共はいつもその、不思議とはいうてはならんと仰るけれども、不思議を感じん訳には参りません。というてなら神様が私共の言う通りに願う通りに、願いどうりに言う事を聞いて下さるという(?)神様でもない。
 それは親であるからという事。子供がおやつばっかりもうおやつは、三時だけに決めとく。もう今食べたじゃんの。というて例えばやりはしません。もうそれをやりよるならば、それはほんな親じゃなかです。子供の事なんか考えていない親なんです。子供の事を思うたらやられんのが本当。そう言う所が段々分かっていかなければいけないですね。そこで私共信心の稽古をさせて頂く。
 神様を確信出来れる、神様がなるほどとこう信じれれる、神様がそういう働きをです、働きかけて下さる、働きかけがしよい、働きよいあんなさる場というものを作ることに一生懸命になればよいということ。私はいつもこうしておかげを私は頂いておる。神様はまだ私共の上にどれだけのおかげを下さろうとしておるか分からんのだけれど、こちらの心がこまかったり狭かったり。ね。
 受け物が小さいもんですから、大きなおかげを受けられんだけのことである。そこでその下さろうとするおかげの御邪魔にならんように御邪魔にならんようにというて、私は思います。また、願います。どうぞ私が神様の働きの邪魔になりませんように、大きな顔をしておる。邪魔になる。実意丁寧を欠くともうおかげの邪魔になる。それこそ、大きな(?)を(?)ような気持ちで。
 いわゆる、実意丁寧神信心をさせてもろうていかなければです、神様の働きに邪魔になる。皆さん一日の内にそうふうなことを反省してみられることはないでしょうか。今日は本当に神様の働きようあんなさったろう、と思うような心の状態の時と、ほんに今日は神様が、おかげをやろうと思いよなさったっちゃ、今日のことでいらいらしておったり、もやもやしておったり。
 悔やむことばっかり悔やむような一日であったから、もう如何にかどの様にか神様が、御働きにくくあんなさったであろうという事。そこにお詫びの生活があります。ね、私共がいらいらしたり、いわゆるおかげの頂きやすい状態というのは、「生神金光大神、天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり」和賀心とは和らぎ賀ぶ心と仰る。その和らぎ賀ぶ心とは、反対の似ても似つかぬ心というものが。
 私共の心を一日占めてしまうものですから、おかげの頂き場がない。おかげの頂きやすい心というのは、和らぎ賀ぶ心なのです。ね、「この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせぬぞ」と仰る。そこで、実をいうたら喜べないことでもです、うそにでも良いからよろこべと仰る。そういうような心の状態に神様が働きようあんなさるですね。あれは心の中では痛い痛いといいよるけれども。
 本当に、もううそんでも喜べと仰るけん、神様が、有り難うございますといいよると、思いなさったら、やはり神様はそういうところに御働きかけ下さることが出来れるのです。神様が働きかけて下さる、そういう場を作ることに私共が一生懸命ならにゃいけません。そこで今日は不平は言わんぞと、今日は一日どげなこつがあったっちゃ腹を立てんぞと。こういう修行なんか素晴らしいと思うですね。
 そういう修行をなさらにゃいけません。金光様のご信心はもう、なでたりさすったりして、おかげを頂くのじゃない。拝んだからおかげを頂くのじゃない。同じ拝むというても、私の心の上に、和らぎ賀ぶ心を頂かせて下されというて頼む、信心なのです。そういうおかげを願わせて頂くのです。私は、私の上に働いてくださる神様をいつも、身近に感じる、色々な工夫をさせてもらいます。
 椛目の時代には私は御風呂に入りますと私が、入りますとです、あの御風呂が、いっぱいになるのです。私が丁度良い。しかも、上がるときには御湯を使っておるけれども、少し沸いておりますから、それが、丁度また上がる時にはまたいっぱい。しかも熱くもなければ温くもない。そういうような状態の中に御風呂に入らせて頂いたときこそ、はあ、今日は私の一日を上に。
 やや間違いのない一日であったなあという風なことを自分で心の中に感じておりました。(?)間違いのない、間違いのないことないですけれども、ね、そのことに焦点を置いて精進をさせて頂いておる神様がそのようにおかげを下さるのです。そこで、いわゆる御風呂に入らせて頂いておってもその御湯のひとすくいひとすくいがです、もう、神様の御姿のように感じられるのです。
 だから有り難いのです。はあー極楽というてもです、ただ、普通の人が横から(?)違った、意味での極楽を感じることが出来るのです。神様がこういう中にもこういう間違いのない働きを下さるのだなあ。ところがさあこちらにまいりましたら、6、7人づつくらい一遍に入れる御風呂でございましょう。ですからそういうわけにはまいりません。ね。ですからそこに、神様がなら働きよい働きの場というもの、ね、
 こういう風にして、守護しておるのぞ守っておるのぞという、守って下さっておるその何かをその風呂の中で感じなければ、いわゆる有り難いものが消えていく。しかもこの頃はもう、私も誰もないもう皆一緒にぞろぞろ入りますから、いつも御風呂が越しよるといったようなことがある。そこで私はその神様の現れ方働きかけなさるとじゃない、働きかけよい、ようあんなさるような考え方をするわけです。
 最近私が、私が御風呂に入らせて頂いてもし越すようなことがあったら、御湯が。もう足らんごたるとはもうしかたがない。いや、仕方がないじゃない。もうかかり湯がございますから、これはもう別に関係がない。私はこれでもなかなか清潔感がもうとにかくその、人が入った後にはやっぱ、水にかからにゃでけん。けれども、この頃かかり湯がございますから、その、ことはいりませんけれども。
 けれども、私が入って、お粗末にもご無礼にもその御湯が越すようなことがあったら、これは神様にご無礼があった時だな、はあ今日は許されておるんだなあといったようなことをまあ風呂の中でも感じさせて頂けれるように、いつでも、どこでも、神様の働きをここに見ることが出来、感じることが出来るような、そういう働きの場を作ることに私は焦点を置いていつも心掛けております。
 今日もある方が大変な、もう(?)しい、五時前十分に御結界につかせてもろうたんです。そしたら丁度電話がかかって来て、四国からの電話かかってきました。出ましたところがその方の兄弟に当られる方がガンの手術致しました。それでもう大変な難病でございました。それで途中で電話が切れましたからどうしたのかと思ったら、電話口で泣きよりなさるとです。先生(?)というてから泣きよんなさいます。
 それで私、その御取次ぎをさせて頂きました。こちらに兄弟がおられますから、承知しました、私が御願いをするからにはね必ず、神様が椛目で親先生がお願いをしておって下さる。神様が願うておって下さる。お取次ぎを頂いたらお取次ぎを下さったです、印がね、そこに現れてくると私は確信しておりますから、必ずね必ずはあ、神様が特別の働きを下さりよるなという働きが見えるように私はお願いしますよというて。
 電話を切りました。皆さんお取次ぎを願ったらもう早速です、神様の働きだという働きがあるんです。ここんところをまた間違えてはなりませんね。神様にお願いをして、変わったことが起きたらありがたいと心得て信心せよと仰るが、それは、変わった事が起こってきたらもう神様の働きが始まっておと。ね。今まで痛みよったのが余計痛となりようごたることがあります。
 お願いしたら返ってその難儀な問題が重複する様な事がございます。けども変わった事が起こって来たら、神の働きが始まったと思うてそこん所を大事にしていけとこう仰るのですね。そう致しましたら丁度もう私下がったのは10時頃でしょうかね10時頃でした。その兄弟の方が久留米におります方が参って参りました。その方はその病人さんは中園マサ子という。でその事を今朝からもね四国から電話が掛かって来たよと。
 こう言う風にお取次ぎさせて頂いて、しっかり一心に御すがりしなさい。だからどうぞあのようなりますようにというだけが、祈り願いであってはならないよと私申しました。こういう神様の働きを頂いておると言う事。こういう神様のご守護を受けておると言う事。こういう神様のご守護の中に痛いこともありゃ、痒いこともありゃあ、生きることもありゃ死ぬる事もあるんだという事をです、分らにゃいけんのですよ。
 こういう神様の働きの中にあるんだという事を分からせて頂くということを信心と。ね、ようなるということじゃないと。儲かるという事じゃない。こういう働きを頂いておるという事を確信出来れるようなものをです、私は今日その川上さんに電話でお取次ぎさせて頂いたように、私がお願いをするからにはただ今からです、必ず病人の体の上に変わったことが起こってくるよと。
 それは、良くなると言う意味じゃないのです。神様の働きが始まると言う事なのです。ここんところを分からせて頂く。今日私が言おうとしておる、ね、神を信ずるというがです、神から信じられる氏子が少ない、と仰るが実は神を信ずる氏子すらが、この頃段々なくなってきておる。神は信じるものを信じると仰るから、私共がまず、神様が信じれれる、確信の持てれれるおかげを頂く為に。
 この様な信心の稽古を、しなければならないと言う様な事をまあ話したですね。そのご兄弟は井上さんと言われる。井上さん見てご覧なさい私があんたが先程参って来た時には御届しなかった。(?)そしたら色々と御理解を頂きよる内にあの、また四国から電話が掛かってきたよと言うたもんだから、またあちらへ下がってから御理解を頂いてそれから、御届けをして書いて、いわゆる中園マサ子の御届けがあった。
 ちょうどその前に私は、段々こう、御届をさせて頂きよりましたら、丁度そこんところへ横に並んでです、江藤正義と言う人のお届けをさせて頂いた。そしたら丁度正義さんが中に参ってきてから、久富正義と言う人の御届をさせて頂いた。そしたら、正義、正義、字は同じなんだ。続いておる。そしたら今度はまたその横に中園正子というその、正という字が三つ続いた。見てごらんなさい。
 私はいつもこの御届帳を(?)度に思うのだけれどもお届けの順序一つだって、神乍らな事であるぞと。神様の働きをこのように頂いておるのぞと。見てご覧なさい私は御届帳を見せましてね、正義正義、正子という、その正の字を三つ並べて見せて、こういうご守護御こういう守りを受けておる、こういう働きを受けておるという事を、分からせて頂く事が信心なんだというたらもう井上さんは非常に感激しましてね。
 もうよう成る様ならんじゃない、こういう御守りのなかにあるのだから右になっても左になってもおかげであるという事が分かってくる。この辺がね私が神様を身近に感じさせて頂いておるいろいろな精進をさせて頂いておるから、神様がこのように働いてくださるです。それこそお風呂の中でも神様の働きを感じなければおかんというようなその、工夫なんです。精進なんです。
 その時皆さん成程こう言う様な御守りの中にあるのだから、と言う事を思う時にその守って下さる方が誰なのかという時にです、天地の親神様である私共の親であると言う事。親の懐に抱き抱えられておる私たちなのだと言う事。しかもその親だってです、どうにも出来ない事もあると言う事。私共がどうぞよくなりますようにどうぞと、私共の願いというものを立てましてから、右になるように左になるように。
 そして右に願ったけれども、左になったというて、神様もいいかげんなものだ、神様も御働きがあるやらあっておらんやら、分からんのだと言う様な事では、何時までたっても神様を確信することができない。そこで私が今日申しますように、お取次ぎを頂いが最後、願うたら最後、神様の働きがこのようにしてあっておるのだ。それは、右とか左とかというじゃないのだ。
 最善の道をもって神様がお働きかけて下さっておるんだけれども、その場合痛いこともありゃ、そんな事もあるんだけれども、神様の働きを頂いておると思うたらありがとうなってくる。安心が出来てくる。なるほどこのお医者さんに手を握ってもろうて、死ぬるならもう死んだっちゃよかと、例えばこの人が名医、天下の名医と言われるような人に一遍手を握ってもろうたら安心がいくようにです。
 こういう偉大なこういう間違いのない、そういう神様の御働きを金光大神のお取次ぎにより、親先生の祈りによって、その神様をこのように身近に感じさせてもらい、頂かせて頂いておるのであるから、右とか左とか問題じゃないのだ。その問題を通して私共が信心を愈々わからせて頂くんだという事をです、信心の目指し対象としていかなければならないと私は思わせて頂いた。大変難しい御理解でしたね。
 はあめくらが目が開いた、ちんばが立ったというようなお話ではなかったのですね、今日のお話は。私共がここの神様を信じると言う事によって、神様が愈々私ともを信じて下さる。その神様が信じて下さると言う事がです、御神徳というのです。久留米の初代の石橋先生がああいう大徳を受けられた。もう、ご晩年の頃福岡の吉木先生がです、石橋先生あなたは御年を召されたから。私が貴方のお徳を頂いて。
 が人の難儀が助かる事のために一生懸命に精進致しますから、どうぞ、貴方のお徳を私にくださいというて願われた。そしたら目をつぶって返事をされない。重ねて言うたら石橋先生が仰る。「そうなあ、お徳と言うのはな、吉木さん。お徳と言うのは神様のご信用じゃからなあ」とおっしゃった。私があんたにあげるわけにはいかんというわけ。それを、三回も続けて、聞かれたというのです。
 もう大体が(?)もう大変弱っておられましたから、まあいうならちいとはぼうけておられたのですね。ですから次にはどげんな事言いなさるか分からんと思うてから、三日間続けて聞いたらやっぱり同じ事をご祈念された。「そうなあ御神徳とは神様のご信用じゃからな」と3べん三日もそれを続けて仰ったそうです。神様のご信用なのです。信用が頂きたい信用が頂きたい、お徳が受けたいお徳が受けたいというてもです。
 こちらがまず神様を信じさせて頂いてこそ、初めて信じられる私共になる事が出来るのです。神様に信じられる私にならせて頂くところにです、ね、わが身が神徳の中に生かされてあるところの喜びを日々それを実感させてもらう。その、ありがたい勿体無いという心に、願わんでも頼まんでもおかげの受けられるというのが、御道の信心のおかげなのでございます。どうぞ、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのは。
 そういうおかげを受けてくれよと仰っておられる(?)そういう一つおかげを頂かなければならない。いよいよ、御大祭あとわずかになりました。みなさん、今日のような( ? )御大祭を拝むというだけでは、御大祭を、( ? )その事を通していよいよ神様を確信出来れる体験をどこの(?)からでも頂いていこうという意欲、願いというものが必要じゃなかろうかと思う。